発信するということ

f:id:reLotus:20180720202513j:image誰にでも何かしらの才能があることは当たり前のことなのであるが、例えば、自分が何かしらのクリエイティブな能力を持っていたとして、それをひけらかして自分を認めてもらいたい気持ちは誰にでもある。

その気持ちのことを承認欲求なり何なりの言葉で表せるのだろうけど、詳しいことは僕は知らない。

音楽でも絵画でも写真でもなんでもいいのだが、アーティストとはその認めてもらいたい衝動に身を任せて作品を世の中に送り出しているのだろう。

 

僕はその衝動を感じながら写真を撮ってSNSにアップするのだが、同時に僕の撮る写真を見て、知らない誰かが僕の写真をわかった気になって、そして果てには僕という人間をわかった気になる。(最もまだ僕なんかがその領域に達していないことは承知している。)

その人の作品を見ただけで、その人自身を分かるはずなんてないのに、このアーティストはこんな人間なんだな、なんて思い込んでしまうことはよくあるだろう。

僕のことは結局は僕しかわからないのに誰かが僕を理解したつもりになる、そんなことをいつも僕は恐れている。

自分を理解して欲しい気持ちと、自分を完全に理解されてしまうことの恐怖の狭間で人は生きているんだと思う。

 

僕は別にポエマーになりたいわけではない、むしろポエマーにはなりたくない。なぜならポエムとは一つの作品となるべきものであるのに対して僕の言葉は作品と呼べるものではないからだ。

僕の言葉はそんな素晴らしいものではなくて、ただの大したことのない戯言なのだから。

 

誰かに見てほしい訳では無い。僕が感じたこと、思考がなんの形にもならずに消えていっていしまうのはなにか儚くて、その思考が可哀想であるから、言葉にしようと思った。

あまり語りすぎると自分の持っている思考がどんどんすり減って、そして自分という人間まですり減ってしまう気がするから、あまり多くは語りたくはないのだけどね。